シルタス!

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イジメられた経験がある俺の「偏屈さ」に自信を持つこと


傍観者の多い日本: 宋文洲メルマガ http://ow.ly/ooSsx
 
これを読んで昔を思い出したから、自分をちょっと振り返ってみた。
 
学生時代は「目つきが悪い」という理由でイジメを受けたことがあった。
一般的な虐待に近いものや、村八分にされるものとは違ってどちらかと言えば「うっとおしい」って感じで一部の人に嫌われる。そして嫌われるのと好かれるのが両極端で、逆に仲の良い人も多かったから、孤立することはなかったんだけど、あと一歩で殴られそうになったり、陰口を散々言われたり、喧嘩を売られることがよくあった。すげぇイヤだった。
 
俺にも原因はあって、目つきが悪かったんだ。
別にヤンキーでもなんでも無かったんだけど、生まれつき持ってる奥二重の目つきが癇に障る人が多かったみたいで、勝手に俺に「嫌われてる」「喧嘩を売られてる」って思い込む人が多かったみたい。そしてそんな事に気づきながらも「どうだっていいよ」って思ってた俺の態度が余計に気に入らない感じだった。縁があって当時俺を嫌ってた人と再会すると、何事もなかったように仲良くなったりするんだけど、実は俺の中では当時のことは根深く残ってるんだよね。すげぇ嫌だったから。今でに大規模な同窓会とかには積極的には行かないしね。
 
で、社会人になった。
状況はそんなに変わらなくて、すごい好かれる人と、すごい嫌われる人に分かれる。その中間はない。俺自身もまぁまぁの付き合いができないし。なぜかは分からないけど、経営に近い人や経営者に好かれやすくて、誰かに寄生してるような人(○○部長~~♪)に嫌われやすい傾向になる。まぁいわゆる上層部に好かれてしまうと、それに比例して妬みやひがみが生まれるのは当然だし、「ゴマすってる」とかあらぬ噂を立てられたりするのもしょうがない。でもわざわざ呼び出してまで「俺はお前が嫌いだ」と言われたり、「俺の方がお前なんかよりスゴイ」と言われたり、知らない間に売上予算が俺だけ勝手に加算されてたり、俺以外の部署みんなで飲み会してたりしたことが何回もあって、経験という意味では良いものだった。
 
結局俺は偏屈なんだと思う。
物事を真っ直ぐに見ないし、みんなが「右」と言ってるところに「なんで右なんだろ?」っていちいち考える性格だ。そのくせムダに仕事が好きだから、人よりもストイックに働いたりする。つまりめんどくさいヤツなんだ。だからそれを「おもしろいヤツ」って思ってくれる人には好かれるし、「めんどくさいヤツ」って思われる人には嫌われる。それは実は俺の大きなコンプレックスでもあるんだよね。
 
この5年ぐらいは営業という職種もあったし、どこか潜在的にそのコンプレックスを克服しようとしてたんだろうと思うけど、みんなに合わせてできる限り「万人ウケ」するように努力した。そしたらより営業成績も上がったし、一見したら戦略も成功してコンプレックスも克服できたように思えた。でも俺自身の人生の充実度は下がってしまった。人間は正直でウソをつけない。心と体が乖離してたらどこかで変調をきたすし、崩壊してしまう。
 
「自分らしく」ってのが最近注目されてるけど、俺は違和感があるんだよね。
本当にみんな「自分らしい」が何かを分かってるんだろうか。会社を辞めてフリーランスになったり、起業したり、MacbookAirを携えてカフェで仕事したりするのはカッコいいし自由に思える。でもそんな人を見てそれが「自分らしさ」だと勘違いしてないだろうか。その人達はたまたまそのスタイルを「自分らしさ」だと定義して成功したけど、自分にとってそれが「自分らしい」かどうかは別問題だ。「社畜」として荒波にもまれたり、出世なんて無視してのんびり過ごすのが自分らしいって言う人がいたって良いと思う。
 
結局俺はどこまで言っても偏屈なんだと思う。
でも現代では昔と違ってその「偏屈さ」をウリに発信できたりするし、「同じであること」を求める価値観も徐々に薄くなってる。(まだ根強いんだけど)だからこれからの人生は自信を持って偏屈に生きてやろう。
 
 
クソみたいに仕事をして、クソみたいなブログを書く。
そんな俺の人生。