シルタス!

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今日の脳カツ 27.「苦労しろ!」は無視 → 「苦労」と思わない物事を見つける事

昔から個人的にすごく悩ましいことがある。それは「苦労」との付き合い方です。この言葉は「努力」と並んで、個人によって基準値が違うし、捉え方も違うので、全ての人に対して一律で語ることはできない。今日はそのことについて考えてみる。 まず、「それを苦労と思うかどうか」があると思う。本当に過酷な環境にいても、本人がそれを好きで望んでやってるのであれば、それを「苦労」とは思わないだろうし、逆にゆるーーい環境にいても本人が嫌々なのであれば、それは「苦労」になる。この最初のスタート地点で大きく変わる。 俺は昔に仕事してるときに大キライなおっさんがいて、40過ぎた人が23~4ぐらいの僕に、数年間に渡って公衆の面前で「お前は苦労してない」だの、散々罵倒された。反面教師という意味ではありがたい存在だったけど、一回り以上年が違う人間に、自分の基準ををそのまま押し付けるその人に驚いた。 そもそも「苦労」という言葉には明確な基準なんて無いので、俺に対して延々と語るその「苦労」のどこがそんなに大変だったのか、逆に俺には理解できなかった。で、理解されないから「生意気だ!」と言っておっさんは余計に激高する。そんな経験から、基準が曖昧なもので人と競わないようになった。 人はなかなか勝手なところがあって、自分の苦労は最大化して表現するのに、人の苦労は最小化して評価することがある。まぁこの都合の良いあり方から見ても、いかに「苦労」という言葉が曖昧かが分かる。自分が若い時の経験なんて、時代も違えば、状況も能力も違う人にそのままは当てはまらない。 ただし「苦労が人を作る」という、その考え方には同意する。しんどい時、つらい時にその人の真価が試される。どんなあり方で、どんな事を考えて、どんな行動を起こして、どんな結果を出したか。そんな経験が人を強くし、自信を持たせ、人に対して寛容にさせる。逆にそこでつぶれてしまう人もいる。 ただそこで「苦労しろ!」と強要するのは間違いだと思う。冒頭で述べたように、スタート時点で苦労の捉え方は変わるからだ。苦労したから良い訳ではないし、苦労してないから悪い訳でもない。要は、それを「苦労」と思わないような物事を見つける事がとても大事で、それを見つけた人は幸せだと思う。